2009年4月7日火曜日

蜘蛛との対話



これは決して冗談や作り話ではなく、あくまでも僕の経験に基づいた一つの真実なんだ。

僕の作業机は窓際に沿って配置されていて、僕の座るすぐ横に大きな窓があり、少しでも首を傾ければ窓の外の様子がうっすらと眺めやれる。その窓は白く細やかな目のレースのカーテンに覆われていて、その表面に、 カーテンという大地の上を平行に這う蜘蛛を、僕は時たま見かける。

机上に視線を留まらせていると、視界の左端のほうで何やらちょこまかと動き回る小さい影に気付く。ふと目を向けると、1センチメートルにも満たない小さな蜘蛛が細かい糸目の上を素早く、しかしその移動範囲は非常に狭く、這い回っている。
僕は見つめる。彼のその小さな迷走とも呼べるであろう中心定まらぬ周回を、じっと見つめる。
その無目的的に見えざるを得ない忙しなさのあまり滑稽にも思える彼の小さなダンスを、僕が無感情に、無表情で、しかし一抹の興味を懐いて見つめ続けて数秒、突然彼はその四対の脚の動きを止めて頭胸部を上方に強く反らせると、確認できぬほどの極小の眼をこちらに向けたんだ。
そしてそのまま、はたと動かない。こちらに眼を向けたまま、僕のほうをじっと見ている。
僕は、まあこれはいささか他人から見れば酔狂なことだけど、こちらを見返してきたその蜘蛛の眼をより強く見つめ直し「お前は僕に何かを伝えようとしているのかな」と、声に出して訊ねたんだ。
僕がこのような愚にもつかぬような行為にいたったには理由がある。
このように「蜘蛛をじっと見つめていたら蜘蛛にじっと見つめ返された」という体験はこれが初めてではなく、それどころかもう数えきれないほどに今まであった。
そのたびに若干の疑念を懐きつつも無言で終えていたことに何らかの行き詰まりを感じ始めていた僕は、とうとう今回しびれを切らし「蜘蛛との対話」を試みたというわけなんだ。

「お前は、いや、正確には、お前ら、は、いつもそうやって僕が見つめていると頭を反らして見返してくるが、はたしてお前は僕がしばらくお前の動きを観察していたことに気付いていたのかな」

と、僕がさらに訊くと、蜘蛛は僕を見つめたまま何も変化がない。

「僕が見ている、という一種の気配といったものをお前は感じとるのかな」

蜘蛛はその上体を反らしたポーズのまま時が止まったかのように静止したままだ。

「なんだかお前らの一族は僕の前につとめてしょっちゅう姿を現しているようだけど、何か僕に特別な用事があるのかな」

そう言っても蜘蛛はまったく動かない。

「それともただ単純に、僕が見つめていることが気に入らないから憤怒の気持ちで見返してくるのかな」

もはや僕もこの試みを諦めざるを得ないほどに、蜘蛛には何の変化も確認できない。

僕が蜘蛛に意識を残したまま目をそらし、机上に視線を戻した数秒後、蜘蛛はやっと自分から目を離した相手に満足したかのようにゆっくりと上体を戻すとまたちょこまかと動き始めた。


これはつい数分前の出来事だよ。
彼らは何者かの視線を敏感に察し得る特性を備えた生物なのかな。
或いは、ほかでもないこの僕に何か特別な伝言をその腹中に詰め込んだ生物なのかな。

そのどちらか、ないしまた違った可能性を僕がつかみ納得し得るまでは、僕は蜘蛛との対話を執拗に試み続けるつもりだよ。

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