2008年12月15日月曜日

現代の気弱な哲人たちと〈ブログ〉という慰安所

先日、出先でとある友人と話をしていた際、何かの拍子に存在や意識やら時間や空間やらといったような途方もない話題になりかけた瞬時にその友人が「おい、大丈夫か、誰かに聞かれてやしないだろうな」と、苦笑しながら呟いた。

ま だ青く瑞々しき学生時分の俺達であったなら、そんな話がひょいと片隅から出るたびに飛び上がり頼まれもせぬのに滔々と語り出しある種の恍惚を表情に浮かば せながら机上を叩き、聴衆の目を真っ向から見つめては熱弁の抑揚のままにさながらオーケストラの指揮者のように両腕を果敢に振り動かし、やっとのことで一 通り論じ終わると「ソクラテスよ、聞いたか!」などと叫んでいただろうが、今はそう元気よくはいかないようだ。

つまりその友人の言う「おい、大丈夫か、誰かに聞かれてやしないだろうな」という懸念の言葉が表すように、どうやら今の齢の俺達にはその話は気恥ずかしさの伴うものなのである。

友 人の力弱く上げられた眉に一瞬言葉を止めた俺は、友人の苦笑いよりかは幾分気楽な微笑を返しながら「大丈夫だ、高名たる哲人たちを見よ、みな立派なじじい さ」と言ったが、友人はなお晴れぬ面持ちで「だが、奴らが躍起になってあの禿げ頭をひねらせ考えに考え抜いていたことなど、現在では神様仏様科学様の中で も最も“やり手”とされる科学様が、惜し気もなく白昼にさらしてくれちまってるよ」と返した。

〈時代〉というものが現代の気弱な街角の哲人たちの根源的な言葉を弾圧し彼らの苦悩をも貶めていることも確かで、だがその迫害の渦中にあってもなお懐中で暖め続けた気高き想念を携え輝かしい壇上に立ち雄弁を振るうという夢想は彼らの心に尽きることはない。

もしこういったブログというものが、彼らの行く先なき言葉たちの、謂わば一つの慰安所としての役割を果たしているのであればそれはとても歓迎すべきことだ。

かく言う俺も、それと決して遠からぬ意義をこのブログというものに見いだしているからこそこうして書いているんだろう。

あらゆる意味での真価や、さらには可能性というものがその評価される対象の存在する時間内には見いだされないことも往々にしてあることだから、あまり外貌だけにとらわれずに気楽にやってみるのが、今は良い