2009年11月5日木曜日

坂口安吾と白痴と芸術



今、坂口安吾の『白痴』を読んでいるんだけどね、その文中にこんな箇所があるんだ。

徒党を組み、徳川時代の長脇差と同じような情誼の世界をつくりだし義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。それによって各自の凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。内にあっては才能の貧困の救済組織であるけれども外に出でてはアルコールの獲得組織で、この徒党は国民酒場を占領し三四本ずつビールを飲み酔っ払って芸術を論じている。彼等の帽子や長髪やネクタイや上着は芸術家であったが、彼等の魂や根性は会社員よりも会社員的であった。

これは昭和21年の作品。
この文章は当時の新聞記者と映画の演出家を言い表した文章なんだけど、今日のあらゆる業界のデザイナーやディレクターやアーティストなどと呼ばれる業種に当ててみてもいいね。
そして、こんな文章もある。

彼等の心得ているのは時代の流行というだけで、動く時間に乗遅れまいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。彼等の日常の会話の中には会社員だの官吏だの学校の教師に比べて自我だの人間だの個性だの独創だのという言葉が氾濫しすぎているのであったが、それは言葉の上だけの存在であり、有金をはたいて女を口説いて宿酔の苦痛が人間の悩みだと云うような馬鹿馬鹿しいものなのだった。

そして彼等の職業をこう言い切っている。

賤業中の賤業であった。

通常の企業よりも何倍も性質の悪い稚拙な派閥があり、仲良しクラブみたいな徒党があって、そこでわいわいがやがや、芸術だの何だの騒いでる。
そんな仲良しクラブがパリのカフェに集う芸術家なんかを気取って、何々主義者だのムーブメントだの抜かしてね、ディレッタントの下の下の下の阿呆相手に威張り散らして金儲けてるんだから、そりゃ賤業も賤業、賤賤業だよ。
いや、賤賤賤業だよ、いや賤賤賤賤業だね。

よくさ、昔の小説なんかにはこんな注意書きが記されてあるよね。

なお本作中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所が散見しますが、著者自身に差別的意図はなく、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。

この一文が僕をより生き難くさせる。
いや、正確には、この一文を添えなければならない時代が、だね。

「白痴」や「盲目」、果ては「気違い」が、時代を超えて芸術作品の題材としてたびたび用いられる理由って知ってる?

僕は知ってるよ。

「白痴」や「盲目」、果ては「気違い」、それこそが真の芸術家の目指す存在だからだよ。

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2009年8月3日月曜日

アルベールカミュの『異邦人』を読んで



アルベールカミュの『異邦人』を読んで、一種の感動を覚えた。

「カミュの異邦人」と聞けば僕のような無学な阿呆でもなんとなくその存在は知っており、まあ有名な作品なんだからそれなりなんだろう、というおぼろげな先入観もあったんだ。
ましてやカミュと言えばノーベル文学賞作家なので、僕が以前愛読していた作家で同じくノーベル文学賞受賞者のアンドレジッドみたいに、いささか説教くさいことも書いてあるんじゃないだろうか、と、読む前から若干身構えた部分もあったよ。

異邦人の簡単な解説として、文庫本の裏表紙にはこう記してある。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。
判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。
通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。

なんだかとりあえず無茶苦茶な奴が、狂言を吐きながら暴れ死に行く風変わりな話かと思いきや、読み始めたら、これがまあ、なんとも、あらゆる予想や期待に反し、爽快なまでに淡々と続く主人公ムルソーの独白。

それが破天荒なものでもなく、陰鬱なものでもなく、かと言って、陽気なものでもない。
僕の最も言いたい感想として、これほどまでに生々しい小説は読んだことがない。
いや、正確に言うと、生々しい文体、なのかもしれない。

無論のこと、「生々しい」と感じるということは幾つかの要因があるだろう。
例えば、その文章が己の日頃の思考、或いは奥底に眠る心情と一致した。
もしくは、その文章が今現在の時代性と共通した空気を放っていた。
それか単純に、写実的な描写により作中のもの・ひとが眼前に浮かんだ。

しかしこの物語は、決して執拗なほどに細かなディテールが描かれているわけでもない。
主人公の情動に満ちた言葉が惜しげもなく吐露されているわけでもない。
むしろ、全体的に不親切なまでに最低限の描写しか用いられていない。
そして、時代は1930年から1940年、場所はフランス、主人公はどこにでもいる、勤め人だ。

前述した簡単なストーリー解説だけ読むと主人公ムルソーは変人とも言っていいほどの奇異な人物なのだろうと思ってしまうが、実際に作中で語るその男の姿は、平凡そのもの。
確かに主人公は母親の死には涙も流さず、翌日にはその日出会った女と接吻を交わし、アパートの住人に自分を騙したビッXへの復讐劇の相談に乗り、その果てに一人の人間を銃殺し、もう息絶えた死体に余計に四発の銃弾を撃ち込み、捕まり、法廷では殺人の動機について「太陽が眩しかったから」などと気取った言葉を言い放った。
しかし、それでも、主人公は、ごく平凡な、取るに足らぬ、ただの男なんだ。

では何故に彼は人を殺め、法によって裁かれ、断頭台へ上がることになってしまったのか。
その原因は、まさに、彼の言った通り、「太陽が眩しかったから」。

この『異邦人』の中で、三箇所、印象に残った文章があった。
ひとつは、彼の獄中での文章。

藁布団とベッドの板との間に、実は、一枚の古新聞を見つけたのだ。すっかり布にはりついて、黄いろく、裏がすけていた。その紙は、頭の方こそ欠けていたが、チェコスロバキアに起こったらしいある事件の記事を載せていた。一人の男が金をもうけようと、チェコのある村を出立し、二十五年ののち、金持ちになって、妻と一人の子供を引き連れ、戻って来た。その母親は妹とともに、故郷の村でホテルを営んでいた。この二人を驚かしてやろうと、男は妻子を別のホテルへ残し、ひとりで母の家に行ったが、男が入って行っても、母にはそれと見分けがつかない。冗談に、一室かりようと思いつき、金を見せた。夜なかに母と妹とは男を槌でなぐり殺して、金を盗み、死体は河へ投げ込んだ。朝になって、男の妻が来て、それとは知らずに、旅行者の身許を明かした。母親は首をつり、妹は井戸へ身を投げた。私はこの話を数千回も読んだはずだ。一面ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前な話でもあった。いずれにせよ、この旅行者はこうした報いをうけるねうちがないでもない、からかうなんぞということは断じてすべきでない、と私は思った。

二つ目は、死刑という判決が下った後、悔い改めさせるために訪問した司祭との口論の末に吐き出した、最初で最後の、主人公の叫び。

君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛−そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命−そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか? 誰でも特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう? サラマノの犬には、その女房と同じ値うちがあるのだ。機械人形みたいな小柄な女も、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したがったマリイと等しく、罪人なのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろう? マリイが今日もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それが何だろう? この死刑囚め、君はいったいわかっているのか。

と、ほぼ半狂乱とも思える、主人公ムルソーの叫び。
しかしムルソーはこの叫びを終えた後、自分は幸福であると悟る。

三つ目は作中ではなく解説に載っていた、カミュ本人が『異邦人』を語った言葉。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう。

と言うわけで、僕はこの『異邦人』、結構気に入っている。
唯一、題名が気に入らないね。この邦題が。
原題は『L'Etranger』、英語圏では『The Stranger』か『The Outsider』となっている。
まあ異邦人でも訳は正確なんだけどね。

まあ、異邦人、興味が湧いたら、読んでみると良いよ!

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2009年4月7日火曜日

蜘蛛との対話



これは決して冗談や作り話ではなく、あくまでも僕の経験に基づいた一つの真実なんだ。

僕の作業机は窓際に沿って配置されていて、僕の座るすぐ横に大きな窓があり、少しでも首を傾ければ窓の外の様子がうっすらと眺めやれる。その窓は白く細やかな目のレースのカーテンに覆われていて、その表面に、 カーテンという大地の上を平行に這う蜘蛛を、僕は時たま見かける。

机上に視線を留まらせていると、視界の左端のほうで何やらちょこまかと動き回る小さい影に気付く。ふと目を向けると、1センチメートルにも満たない小さな蜘蛛が細かい糸目の上を素早く、しかしその移動範囲は非常に狭く、這い回っている。
僕は見つめる。彼のその小さな迷走とも呼べるであろう中心定まらぬ周回を、じっと見つめる。
その無目的的に見えざるを得ない忙しなさのあまり滑稽にも思える彼の小さなダンスを、僕が無感情に、無表情で、しかし一抹の興味を懐いて見つめ続けて数秒、突然彼はその四対の脚の動きを止めて頭胸部を上方に強く反らせると、確認できぬほどの極小の眼をこちらに向けたんだ。
そしてそのまま、はたと動かない。こちらに眼を向けたまま、僕のほうをじっと見ている。
僕は、まあこれはいささか他人から見れば酔狂なことだけど、こちらを見返してきたその蜘蛛の眼をより強く見つめ直し「お前は僕に何かを伝えようとしているのかな」と、声に出して訊ねたんだ。
僕がこのような愚にもつかぬような行為にいたったには理由がある。
このように「蜘蛛をじっと見つめていたら蜘蛛にじっと見つめ返された」という体験はこれが初めてではなく、それどころかもう数えきれないほどに今まであった。
そのたびに若干の疑念を懐きつつも無言で終えていたことに何らかの行き詰まりを感じ始めていた僕は、とうとう今回しびれを切らし「蜘蛛との対話」を試みたというわけなんだ。

「お前は、いや、正確には、お前ら、は、いつもそうやって僕が見つめていると頭を反らして見返してくるが、はたしてお前は僕がしばらくお前の動きを観察していたことに気付いていたのかな」

と、僕がさらに訊くと、蜘蛛は僕を見つめたまま何も変化がない。

「僕が見ている、という一種の気配といったものをお前は感じとるのかな」

蜘蛛はその上体を反らしたポーズのまま時が止まったかのように静止したままだ。

「なんだかお前らの一族は僕の前につとめてしょっちゅう姿を現しているようだけど、何か僕に特別な用事があるのかな」

そう言っても蜘蛛はまったく動かない。

「それともただ単純に、僕が見つめていることが気に入らないから憤怒の気持ちで見返してくるのかな」

もはや僕もこの試みを諦めざるを得ないほどに、蜘蛛には何の変化も確認できない。

僕が蜘蛛に意識を残したまま目をそらし、机上に視線を戻した数秒後、蜘蛛はやっと自分から目を離した相手に満足したかのようにゆっくりと上体を戻すとまたちょこまかと動き始めた。


これはつい数分前の出来事だよ。
彼らは何者かの視線を敏感に察し得る特性を備えた生物なのかな。
或いは、ほかでもないこの僕に何か特別な伝言をその腹中に詰め込んだ生物なのかな。

そのどちらか、ないしまた違った可能性を僕がつかみ納得し得るまでは、僕は蜘蛛との対話を執拗に試み続けるつもりだよ。

クモ学―摩訶不思議な八本足の世界

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